私は可能性を想像するのが好きで、いつも可能性を尊んでいる。
最近だと雑貨屋でクッキー型を眺めてどんなアイシングだと可愛いだろうか、フルーツを型抜きしてケーキに飾ってみても可愛いだろうなとかそんなことを想像して楽しんだ。私がクッキーを焼いたのは子供の頃に母と作った1度きりで、アイシングなどしたことがない。ケーキなんて作ったこともない。私が何か作るとして味も見た目も人並み以下だろう。センスがないから可愛いものなんて作れない。でも作って確定させなければ可能性はずっと無限にある。だから型を見ては想像して満足する。家にもいくつかあるが使ったことはない。
東京には日本科学未来館という施設がある。私が初めてそこを訪れたのは大学生になってからだが、展示を回っていると制服姿の小学生達が体験コーナーで楽しそうにしていた。それを見て、こういう施設に小学校の学校行事で来れるその恵まれた環境への嫉妬や羨望も抱いたが、最も胸を占めたのは彼らが持つ未来という可能性の大きさに対する……なんだろう。言葉にしたいが適切な語が出てこない。とにかく彼らにはたくさんの可能性があるのだと、それが強く胸を打ち、泣いていた。
私はいつも「私が何かするよりももっと優れた/手慣れている/やりたい人がやった方がいい」と考えている。自分の可能性を信じていないからだと思う。人や物の可能性は信じられるのに自分には失敗する未来しかないように思える。何をするにも最悪の結果が真っ先に浮かぶし、理想の結果も想像するが理想は理想で高すぎて実現できない。だから最悪の結果は避けられてもいつも私の主観では失敗で、自信もない。そんな感じなので物の持つ可能性を自分が確定させる──物を使って何かを作ることがとても苦手だ。せっかく素晴らしい使い方ができるのに私がその可能性を潰してしまったと感じる。だから私の手元には材料はあっても完成品はほとんどない。
そんな人間だけれども、ここ数年は少し変化があった。まずは短歌を始めた。あれだけ私には創作は無理だと言っていた人間が始めて、更に上達したくて短歌をしているフォロワーと作品について話したり、Twitterで公開したりしている。大進歩だ。あと推してるアイドルが衣装を作ったりしているのを見て、推しイメージのグッズを作った。作ったと言ってもパーツを組み合わせただけだが、お店で「あ、これはあの娘のイメージに合うな」「このフリルとメンカラのリボンを合わせたら可愛いかな」と考えている時間は楽しかった。作ったものは差し入れのラッピングにこっそり使った。ただの装飾だから一瞬目を楽しませられればいい、きっと捨てられるだろうと思っていたが、メンバーの1人が現場で私物につけていてくれるのを今でも見かけるのでとても嬉しい。作った物が人に届くのは嬉しい、という子供の頃よく感じていたことを思い出した。
私は今も自分の可能性を信じられない。努力できない自分に失望してしまって、何かを始めようとも思えない。でも短歌は続けていこうと思うし、作りたいものが浮かんでそれを自分が可愛いと思えたなら作ってみようとも思う。下手なのはわかっているが、私が良いと思えるものを生み出せる1番身近な存在は私だから。